カンボジア近現代史

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ベトナム近現代史

一緒に日本語で勉強しよう!,17世紀~,後黎(レ)朝後期(鄭阮の抗争により南北分治),北部: 鄭(チン)氏- 北河国(交趾国/東京国);南部: 広南(クァンナム)阮氏- 広南国,西山朝 (1778~1

❝ 引用的文章
一緒に日本語で勉強しよう! 9世紀~ クメール王朝/アンコール王朝(高棉王朝/吳哥王朝) 15世紀~ シャムの侵攻により、アンコールが陥落し、王都が南方へ移っていった. アンコール王朝が衰退し、カンボジアの後アンコール時代(暗黒時代; 柬埔寨後吳哥時代)となった. 1. シャムとベトナムの侵攻や干渉、そしてフランスの保護国に 17世紀~ シャムの重なる侵攻のほか、ベトナムも侵攻や干渉を加えていた. 両国の圧力に対抗しきれなくなったカンボジア王国はフランスの保護を要請. -1863年8月11日, フランスとカンボジア王国との間に条約の締結によって、カンボジア王国がフランスの保護国となった. -1887年, フランス領インドシナ(仏印, 法属印度支那)が成立. (カンボジア保護国を含む) 2. 日本軍の進駐とフランスの復帰、そして完全なる独立: -1940年, 日本軍が北部仏印に進駐. -1941年, 日本軍が南部仏印に進駐. (フランスのヴィシー政権(維琪法國)との協定のもとで、日本軍が駐留し、フランス側の植民地行政機構も存続した.) -1941年11月、18歳のノロドム・シハヌーク(諾羅敦·施亞努)が即位. -1945年3月9日, 仏印武力処理/明号作戦/三・九クーデター. 日本軍が駐留フランス軍を制圧し、フランス側の植民地行政機構を解体した. -1945年3月, カンボジア国王のノロドム・シハヌーク(諾羅敦·施亞努 or 諾羅敦·西哈努克)はカンボジア王国の独立を宣言した (1945年3月11日, 保大帝がベトナム帝国の独立を宣言した.) (1945年4月8日, ルアンパバーン王国のシーサワーンウォン王(西薩旺·馮)は、ラオス王国の国王として独立を宣言した.) -1946年, フランスの復帰により、カンボジア王国が再びフランスの統治下に戻った. -1953年11月, ノロドム・シハヌーク国王の交渉と強硬な姿勢を受け、フランス政府はカンボジア王国の完全独立を認めた. 3. 外交では東西両陣営から中立政策を守り、国内では左派の重用と弾圧を繰り返し -1951年6月, クメール人民革命党(高棉人民革命黨)が成立. その後、カンプチア共産党(Communist Party of Kampuchea/CPK)へと発展.(主な指導者: ポル・ポト/波布, イエン・サリ/英薩利, ソン・セン/宋成) -1955年3月3日, ノロドム・シハヌークが政治活動へ直接参加するため(立憲君主制での国王の法的制限を避けるため)、自ら退位し、王位を父であるノロドム・スラマリット(諾羅敦·蘇拉瑪烈)に譲った. -1955年4月7日, 政治団体「社会主義人民共同体(サンクム・リアハ・ニヨム、通称サンクム)」を結成した. 同年1955年9月の総選挙で圧勝して、10月にノロドム・シハヌークは首相兼外務大臣に就任した. -1960年9月, クメール人民革命党がカンプチア労働党(高棉勞動黨)に改名. -1966年9月, カンプチア労働党がカンプチア共産党に改名. -1967年, シハヌークにより、ソン・サン(宋雙)が首相に任命された. -1967年~, シハヌークがカンプチア共産党をはじめとする過激左派(クメール・ルージュ/赤いクメール)の取り締まりを強化. クメール・ルージュがカンボジア東北部に潜伏し、北ベトナムの支持を得て武装勢力を築いていた. (クメール・ルージュ/赤いクメール (Khmer Rouge/紅色高棉/赤柬): ノロドム・シハヌークがカンプチア共産党とほかの過激左派の呼び方だが、のちにポル・ポト(波布)率いる派閥とその直系勢力のことと指す.) *カンボジア:英語の「Cambodia」に由来する呼び方. *カンプチア: 現地クメール語での本来の国名である「Kampuchea(カンプチェア)」の日本語読み. 4. クメール共和国(ロン・ノル政権) と 反ロン・ノル共闘のカンプチア民族統一戦線とクメール・ルージュ -1970年3月18日, シハヌークの外遊中、親米のロン・ノル(龍諾)がクーデターを決行し、のちにクメール共和国(高棉共和國)の成立を宣言した -1970年3月23日, シハヌークが滞在先の北京にカンプチア民族統一戦線(FUNK/柬埔寨民族統一陣線)の設立を宣言. -1970年4月29日~7月22日, カンボジア作戦. (南ベトナム軍とアメリカ軍がカンボジア東北部に北ベトナム軍と南ベトナム民族解放戦線(NLF)の拠点を攻撃) -1970年10月, クメール・ルージュはカンプチア民族統一戦線を支持. シハヌークとクメール・ルージュの反ロン・ノル共闘によりロン・ノル政権との内戦に突入. -1973年1月27日, ベトナムに関するパリ和平協定が調印され、アメリカ軍が撤退を開始した. -1975年4月17日, クメール・ルージュがカンボジア首都プノンペン(金邊)を制圧した. カンボジア内戦が終結. カンボジア・ゼロ年(Year Zero/零年) ( 1975年4月30日, 北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線が南ベトナム首都サイゴンを制圧. 1975年8月23日, パテート・ラオがラオス首都ヴィエンチャンを制圧. ) 5. クメール・ルージュ(ポル・ポト政権)による民主カンプチア(民主柬埔寨)の樹立 中ソ対立の状態で、ソ連がベトナムとラオスとの関係を強める一方、中国がクメール・ルージュを支援. -1976年1月, 新憲法の発布、国名を民主カンプチア(Democratic Kampuchea)に改称. -1975年~1979年の間, クメール・ルージュ(ポル・ポト(波布)政権)による急進的な共産主義政策と極端な農業集団化政策が強行され、大虐殺(紅色高棉大屠殺)、飢餓、疾病、過酷な強制労働などにより、150万から200万人が死亡.(当時の人口約780万人の約4分の1) 6. 親ベトナムのカンプチア人民共和国(ヘン・サムリン政権 -> フン・セン政権)と反ベトナム三勢力連合の内戦 -1978年12月, カンプチア救国民族統一戦線(FUNSK)を結成. 元クメール・ルージュ将校でベトナムに亡命したヘン・サムリン(韓桑林)を擁立. -1978年12月25日, カンボジア・ベトナム戦争が開戦(ベトナム軍がカンボジアに侵攻). -1979年1月7日, ベトナム軍がプノンペンを制圧、民主カンプチア(クメール・ルージュ政権/ポル・ポト政権)が崩壊. ポル・ポトとその残党は、タイの国境付近のジャングルへ逃れて、ゲリラ闘争を続けた. -1979年1月10日, カンプチア人民共和国(PRK)が樹立され、FUNSKのヘン・サムリンが国家元首に就任. (フン・セン/洪森 は外相) (1951年6月に創立したクメール人民革命党(高棉人民革命黨)をルーツにし、カンプチア人民革命党が"再建"された) (1979年2月, 中越戦争、中国人民解放軍がベトナム北部に侵攻. 一か月後、中国人民解放軍が撤退) -1981年6月, 新憲法を採択し、フン・センが閣僚評議会副議長(副首相)に就任. (1985年, フン・センが首相に就任.) -1982年6月, 反ベトナム三勢力による、民主カンプチア連合政府(CGDK/The Coalition Government of Democratic Kampuchea)が成立. 反ベトナム三勢力: -FUNCINPEC(フンシンペック)/奉辛比克黨: シアヌーク国王派 -KPNLF/クメール人民民族解放戦線(高棉人民民族解放陣線): ソン・サン(宋雙)が率いる右派(ソン・サン派); 後に仏教自由民主党(自由民主佛教黨)に改称. -PDK/民主カンプチア党(民主柬埔寨黨): 1981年12月にカンプチア共産党を解散して結成されたポル・ポト派 国際連合におけるカンボジア代表権はカンプチア人民共和国(PRK)になく、反ベトナムの民主カンプチア連合政府(CGDK)にある. 7. 国連の平和維持活動(PKO)と新生のカンボジア王国 -1989年, ベトナム軍の撤退に伴い、カンプチア人民共和国はカンボジア国(State of Cambodia/SOC)と改称. -1991年, カンプチア人民革命党がカンボジア人民党(CPP)と改称 -1991年10月23日, カンボジア和平パリ協定(1991年巴黎和平協定)が調印された -1992年3月, UNTAC(アンタック)/国際連合カンボジア暫定統治機構(柬埔寨過渡時期聯合國權力機構)が設立された 国連による暫定統治と和平支援として、治安の維持や武装勢力の武装解除や総選挙の組織と管理など、カンボジアの再建を行う. (だが、クメール・ルージュは武装解除に応じず、1993年の総選挙もボイコットした.)   -1993年5月, 国民議会総選挙が行なわれ、フンシンペック党党首のノロドム・ラナリット(諾羅敦·拉那烈; シハヌークの次男) が第一首相、カンボジア人民党のフン・センが第二首相に選出された. -1993年9月24日, 新憲法を発布し、シハヌークが国王に再即位、立憲君主制の統一国家としてカンボジア王国が正式に発足した. -1997年7月, フンシンペック党とカンボジア人民党の軍隊が衝突し、第一首相であったラナリットはパリに逃亡. -1998年7月, 総選挙でカンボジア人民党(CPP)が第一党となり、その後フン・センが単独で首相に就任. ( 1998年4月, ポル・ポト死亡、クメール・ルージュ系の武装勢力は大部分が新政府軍に掃討され、1999年までに、大半のメンバーは投降あるいは拘束された. ) 2004年10月, シハヌークが退位し、ノロドム・シハモニ(諾羅敦·西哈莫尼; シハヌークの七男)が即位し、現在に至る. 2023年8月, フン・マネット(洪馬內; フン・センの長男)が新首相に就任. 以上 I, カンボジア王国 (1970年まで) -> クメール共和国(高棉共和國; ロン・ノル政権; 1970~1975年); アメリカが支持. -> 民主カンプチア(民主柬埔寨; ポル・ポト政権; 1975~1979年) (カンプチア共産党(CPK)/クメール・ルージュ(紅色高棉)により樹立、中国が支持) -> カンプチア人民共和国(柬埔寨人民共和國/PRK; ヘン・サムリン政権 -> フン・セン政権; 1979~1989年) (カンプチア救国民族統一戦線(FUNSK)により樹立、ベトナムが支持.) -> カンボジア国(柬埔寨國/SOC; フン・セン政権; 1989~1992年) -> 国際連合カンボジア暫定統治機構(柬埔寨過渡時期聯合國權力機構/UNTAC; 1992~1993年) -> カンボジア王国 (1993年、シハヌーク国王が再即位) カンプチア人民共和国 と別に、 民主カンプチア連合政府(CGDK) (反ベトナム三勢力連合により成立.) ( 反ベトナム三勢力: -FUNCINPEC(フンシンペック)/奉辛比克黨: シアヌーク国王派 -KPLNF/クメール人民民族解放戦線(高棉人民民族解放陣線): ソン・サン(宋雙)が率いる右派 -PDK/民主カンプチア党(民主柬埔寨黨): 1981年12月にカンプチア共産党を解散して結成されたポル・ポト派 ) カンプチア人民共和国(PRK)は当時のカンボジアを実効支配したが、国際連合におけるカンボジア代表権は反ベトナムの民主カンプチア連合政府(CGDK)にある. II, クメール人民革命党(高棉人民革命黨) -> カンプチア共産党(CPK) (主な指導者: ポル・ポト/波布, イエン・サリ/英薩利, ソン・セン/宋成) (クメール・ルージュ(Khmer Rouge/紅色高棉/赤柬 として知られている.) -> 民主カンプチア党(PDK) カンプチア人民革命党 (クメール人民革命党(高棉人民革命黨)をルーツにし、反ポル・ポト派により"再建"された) -> カンボジア人民党(CPP) III, ノロドム・シハヌーク = 諾羅敦·施亞努 or 諾羅敦・西哈努克 ノロドム・シハモニ= 諾羅敦・西哈莫尼 ノロドム・ラナリット = 諾羅敦・拉那烈 ソン・サン = 宋雙 ポル・ポト = 波布 イエン・サリ = 英薩利 ソン・セン = 宋成 ロン・ノル = 龍諾 ヘン・サムリン = 韓桑林 フン・セン = 洪森 フン・マネット = 洪馬內 ----------------------------------
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